富士講について
~ 富士信仰と富士講 ~
富士講は、富士山を遠望できる江戸の町から起こり、広く関東に広まった。富士山は、本来山の神であるが、千葉の沿岸から美しい富士の姿が海越しに見えることや海の幸は山からもたらされることから、漁師の信仰も 篤く、千葉の沿岸沿いに浅間神社が富士講と共に多く見られる。
富士講は富士山の開山中、富士登拝を主な行事とし、「月拝み」といって月毎に先達宅に講員が集まり、祝詞や神句などを唱え合うなど、日常的な活動によって互いに信心を深め合った。また、町内に人工の富士山「富士塚」を築き、開山に合せて女や子供たちにも登れるようにした。そこには、登山道に似せて一合目から頂上までが示され、各所に祠や登拝の記念碑・鳥居などが建てられた。中には江戸の名所ともなり、現在でも東京の各所に当時の富士塚が残されている。
講を率いる先達は、信仰心に篤く人望のある者が選ばれた。その教祖と仰ぐ富士講の中興の祖、食行身禄は世の人々を救うため富士山で三十一日の断食行の末入滅した。その後、江戸では多くの富士講が起こり、中でも「山三講」「山包講」などが「元講」として、江戸市中から近郷へと広がりその「枝講」が千葉などに伝えられた。このように富士講は江戸から昭和の世代まで、神道を中心とする伝統的な信仰を以て脈々と庶民に受け継がれていった。戦後、多くの富士講が解体される中、当社のように神社の活動の中にその信仰が息つがれている。
当社・山包講の大先達栄行真山
山包講 講印
安房国浅間宮第百八番
栄行真山は地元「磯村」の人で、若い頃より富士行者としての修行を始め、海産物を商いながら富士登拝を重ねた。終には一〇八度の登拝を成し遂げ、浅間大神から「安房の中にある浅間宮を礼所のように番号をつけて広く知らしめよ」とのお告げを受け、当社を一番として安房各地から浅間神社を一〇八社を選び人々に参拝を呼びかけた。
当社の富士講遺産
近くの富士講系浅間神社
川代浅間
「山水講」という講社。田原地区川代の人々が今でも八月一日にお参りを続けている。 神社は嶺岡林道から案内板があり、田原側の森に入り、十分程の山中にある。
天面浅間神社
当社と同じく「山包講」。海岸に切り立った「浅間山」頂上に浅間神社が祀られており、六月一日、天面地区の人々が頂上に登って参拝する。登山口が不案内なため、事前に連絡要。
「山水講」という講社。田原地区川代の人々が今でも八月一日にお参りを続けている。 神社は嶺岡林道から案内板があり、田原側の森に入り、十分程の山中にある。
天面浅間神社
当社と同じく「山包講」。海岸に切り立った「浅間山」頂上に浅間神社が祀られており、六月一日、天面地区の人々が頂上に登って参拝する。登山口が不案内なため、事前に連絡要。